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【時事評論】政治機能の原点

「正解」がない中で「合意」形成を

pixabay
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 私たちが生きる上で判断すべき事柄について、何が客観的な「正解」なのか分からないことは少なくない。

 科学的に客観的な「正解」だと思っていることですら、立場を変えれば必ずしもそうとは限らない。

 例えば、平行線は交わらないとしても、交わるとしても、論理的破綻をきたすことなく幾何学は成立する(ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学)。

 また、地動説と天動説にしても、多くの科学者が好む「説明のシンプルさ」から採用した基準に従うということでしかなく、あくまで地球を基準とする座標軸を設定することは不可能ではない。

 ましてや、いわゆる科学的議論とは別次元である価値観や政治的な信条などについての「正解」は求めるべくもない。

 これに対して、新実存主義を掲げるマルクス・ガブリエル氏は、例えば「子どもを虐待してはならない」という命題は普遍的なもの、いわば「正解」だと主張する。 

 しかし、例えば、漢の高祖・劉邦は、敵から逃げる馬車を軽くするために「親の方が子どもより大切だ」として、自分の息子と娘を馬車から放り出したが、これを儒教的価値観に合致するものと擁護する議論は絶えず、「子どもを虐待してはならない」という命題でさえも、普遍的な「正解」とは言い難いようだ。

 特に、近時では、インターネットなどの普及が進んで、私たちは常に外部と接続されてさまざまな異なる認識や意見と触れ合うようになったことから、何が「正解」なのか分からないということがいわば常識化しているようにも思われる。

 このような状況にあっては、異なる認識や意見の間での対話は、行きつく先のない徒労であることが多くなる。

 その結果、人々は、自分と認識や意見を同じくする環境の中だけに閉じこもってしまって「やはりそうだ」と頑固になっていくか(エコーチェンバー効果)、自分の認識や意見にそぐわない他者を激しく、しかし、一方的に攻撃するようになる(ネット炎上)。

 一切の存在と認識を相対化する構築主義が主張するように、人々の認識や意見が文化的・社会的に規定されるものであるとしても、文化的・社会的に同一性が高い集団であれば、このような状況にあっても支配的な多数派、すなわち「常識」というものが確固たるものとして存在し得るだろう。

 かつての日本は、実際にそうした世間の「常識」を持ち得ていたと言ってよい。

 しかし、現下の日本では、貧富の差、世代間の差、そして地域間の差などが拡大しており、「人はそれぞれ」という傾向を助長しているようにも見える。

 そして、自由、多様性、個人主義、等々の美しく否定しがたい言葉が、「人はそれぞれ」「私は私、あなたはあなた」という考えに援用される。

 こうして、困難な議論は「見解の相違ですね」で打ち切られてしまいがちだ。

 しかし、私たちは一定のルールの下で社会的存在として生きている。

 そのこと自体を否定してしまえば、社会は分断され、さらに分断がマイクロ化していけば、一人一人が孤高の存在として生きるほかはなくなってしまう。

 そうなれば、私たちの国家も社会も行き詰まることは当然であろう。

 多くの事柄について「正解」がないとしても、社会的存在として生きていくためには、それぞれに異なる私たちは、違うからこそ、互いに向き合って議論して「合意」を形成しなくてはならないはずだ。

 その努力を、自覚的にあるいは無自覚的に放棄してしまえば、私たちの社会生活を導く指針は、誰かにとって都合のよい似非「正解」となる危険性がある。

 斎藤幸平氏が「SDGsは大衆のアヘンである」とマルクス流に指摘するとき(人新世の「資本論」)、その指摘自体の是非は別として、外部から与えられた指針を安直に「正解」として受容することの危険性への警戒が背後にあると言えるだろう。

 私たちは、「正解」が分からない中で異なる認識や意見があることを前提に、社会的存在として主体的に、議論を通じて「合意」を形成しなくてはならない。

 「正解」が分からないのだから、それぞれが勝手にしてよいということにはならないのである。

 もちろん、「正解」を求めることができない中で「合意」を形成することは、簡単なことではない。多大なコストがかかることも間違いがない。

 しかし、それこそが民主主義が払うべき正当なコストだ。

 今、政治に求められている機能は、まさに、異なる認識や意見の間にあって、コストをかけて「合意」を形成することではないか。

 そうした「合意」形成の努力を政治が放棄し、社会の分断をむしろ推し進めて自らの政治的基盤を築こうとするならば、私たちの未来は暗澹たるものとなってしまう。

 9月の自民党総裁選、立憲民主党代表選を終えた今、改めて、民主主義の下での政治のあるべき本来的機能の原点が、異なる認識や意見の間での熟議を通じた「合意」形成であることを強く指摘しておきたい。
                                                (月刊『時評』2024年10月号掲載)