2024/06/04
昨年末、政府は少子化対策の強化に向けた「こども未来戦略」を発表した。
2026年度までに国・地方合わせて年3・6兆円の「追加」予算を投じ、児童手当や育児休業給付を拡充するという。
また、税制改正では、子育て世帯の優遇を打ち出した。
2024年度予算においては、こども家庭庁が一般会計で4兆1457億円、特別会計も含めて5兆2832億円を予算計上し、同戦略の3割程度を実行するという。
他方で、少子化対策の強化に必要な財源の不足分を賄うため、2024年度から新たな国債「こども・子育て支援特例公債」が発行される。
さらに、少子化対策の財源確保に向けては、医療保険を通じて国民や企業から集める「支援金制度」を2028年度までに構築する予定だ。
政府が「異次元」と銘打った少子化対策が具体化してきたところだが、誤解を恐れずにその内容を要約すれば「経済的インセンティブで子どもを増やす」という発想が色濃く出てはいないか。
新たな政策として打ち出された第3子以降の児童手当増額や、所得制限のない子ども3人以上世帯の大学無償化などはその典型と言えるだろう。
また、親が就労していなくても子どもを保育所などに預けられる「こども誰でも通園制度」を新たに創設する政策も、子どもがいれば市場価格以下でサービスを提供するという意味では、経済的なインセンティブに他ならない。
しかし、こうした経済的インセンティブで子どもを増やそうとする政策は、重大な誤謬を抱えていないだろうか。
結婚し、家庭を築き、子どもを産み育てるという人間の営みは、もちろんそれを支える経済的な環境を必要とする。
しかし、そもそも、そうした人間の営みを「経済的な合理性」によってのみ判断することはできないはずだ。それは、いわゆるゼニカネの問題ではない。
ハーバード大学教授のマイケル・サンデルがその著書「それをお金で買いますか」で述べたように、お金で売買されるべきものと、非市場的価値によって律せられるべきものを区別することは、人間として忘れてはならないポイントだ。
その観点からすれば、子どもを産み育てるという人間の営みは、本来的には、非市場的価値によって律せられるべきものだ。
マイケル・サンデルは、このポイントを道徳的限界として議論しているが、問題は道徳的な問題にとどまらない。
少子化対策を経済的インセンティブで解決しようとすれば、人々は子どもを産み育てることのコストを強く意識し、それを経済的な問題として捉えるようになる。
子どもが本を読めばお金を与えることにすると読書の意味付けが変わってしまうとマイケル・サンデルは述べたが、同様に、経済的インセンティブで少子化対策を打ち出せば、子どもを産み育てることの意味付けが変わってしまう。すなわち、人々は、子どもを産み育てることを「コスパ」の問題にしてしまうのだ。
さらに、このことは、経済的インセンティブが子どもを産み育てるコストを上回るほど大きくなければ効果を持ち得ないという悲劇的な結論につながる。
子ども一人を産み、0歳から22歳まで育てるコストは、養育費と教育費を合わせて、実に約2700万円(大学まですべて国公立校)から約4100万円(すべて私立校)になるという試算もある。
こうした試算を前提にすれば、児童手当や大学無償化(それも3人の大学生がいればという条件がつく)などでは、子どもを産み育てるコストのわずかな部分しかカバーできないことは明らかだから、「子どもは持たない方が経済的に合理的だ」「子どもを持つことはコスパが悪い」ということになり、経済的インセンティブは有効ではあり得ないことになる。
他方で、そうした経済的インセンティブを賄うために、国民負担率の増加、あるいは国家財政の悪化を招けば、人々の将来予測は悲観的になり、さらに少子化傾向は強まることになるだろう。
誤解を恐れずに言えば、経済的インセンティブで少子化は止まらず、むしろ悪循環に陥る恐れすらある。経済的インセンティブのパラドックスだ。
もちろん、すでに指摘したように、子どもを産み育てるためには、経済的な環境も整わなければならない。
しかし、それは、日本社会全体として、結婚し、家庭を築き、子どもを産み育てるという人間の営みが普通にできるような中間層の復活を通じて実現すべきものだ。
中間層の復活は、いまや容易ならざる大きな課題ではあるが、ここで正面から向き合って取り組まなければ、少子化を含む日本社会のさまざまな問題は解決しない。
昨今、日本において、思想家エミール・シオランの「生誕の厄災」が静かなブームとなっているが、「出生しないということは、議論の余地なく、ありうべき最善の様式だ」という彼の主張が広く受け入れられる社会でよいとは思われない。
少子化対策に求められているのは、経済的インセンティブではなく、日本の経済と社会のありように関する構造的な転換だ。
(月刊『時評』2024年2月号掲載)