2024/11/06
かつてカール・マルクスは、資本主義はそれ自体の危機によって滅びると考えた。
資本と賃労働との関係は、資本主義のダイナミズムを支える一方で、ブルジョアジーとプロレタリアートの抜き差しならぬ階級闘争をもたらし、資本主義は共産主義ないしは社会主義に取って代わられる運命にあると彼は主張した。
彼の所説は歴史的に大きな影響を与えたが、結局のところ、ここまでの歴史的事実として、資本主義は生き残った。
むしろ、現実に敗北したのは、共産主義であった。ソ連は崩壊し、中国は赤い資本主義国となった。
しかし、わが国では、経済格差の拡大と社会の分断、コロナ禍以降の困窮者の拡大などを背景として、社会主義への関心が高まっているようだ。
現実にも、国の政策と国民の期待はスパイラル的に共鳴して、人々の国への依存傾向が強まり、政策は社会主義的色彩を強めているように見える。
もしかしたら、私たちは「資本主義を否定する静かな革命」を無自覚に進めているのかもしれないとさえ思われる。
もちろん、多くの論者が正しく指摘するように、資本主義は完全ではあり得ず、これを金科玉条とすることは許されない。
かつてマックス・ヴェーバーが喝破したように、そもそも資本主義は「人々の必要」を満たすのではなく、「購買力を伴う人々の必要」を満たすのであり、人々の生活を支えるシステムとしては根本的で逃れ得ない非合理性がある。
そうした資本主義の弊害を緩和するさまざまな調整は当然に必要だが、それは個人を単位とする事後的な社会政策によるべきであって、弊害があるから資本主義自体を否定し放棄すべきだとはならないはずだ。
実際、多くの欠陥や弊害があるにせよ、資本主義は人類史上類例のない水準で人々に豊かさと自由をもたらしてきた。
英国首相であったウィンストン・チャーチルは議会において「民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」と述べた。
この「民主主義は他の政治システムよりはマシ」というチャーチルの民主主義の評価になぞらえれば、「資本主義は他の経済システムよりはマシ」と言えるだろう。
資本主義は、マルクスの「資本主義は破滅する」という予言を自己破壊的予言(予言することでかえって現実化しない)へと転じつつ、ヨーゼフ・シュンペーターが論じたように、基本的には「富裕になることへの期待」と「零落することへの恐怖」という「アメとムチ」を人々に示すことで成功してきた。
しかるに、現在の日本で進んできていることは、そうした「アメとムチ」の過度の否定ではないだろうか。
「経済」というシステムが「政治」に対して保持すべき相対的自律性が徐々に浸食され、資本主義的というよりは社会主義的というべき政策が過度に増大してはいないだろうか。
しかも、そうした社会主義的政策の財源をもたらすべき「経済」が、そうした政策によって弱体化するという悪循環の行き詰まりに向かって日本は進んではいないか。
政治の作用によって、資本主義経済の下では淘汰されるべき企業が生き残り、ヒトやカネの流動化が阻害され、国全体としての生産性向上が停滞している。
その何よりの証左が、わが国経済の低成長と国際的地位の低下、そして他方での膨大な国家債務の積み上がりである。
戦後日本は「最も成功した社会主義国」と呼ばれることがあった。
しかし、戦後日本は社会主義故に成功したのではなく、逆に、資本主義の下での高度経済成長の果実を基に、利益分配的な政策が実行されていたのである。
現在の日本は、経済成長が乏しい中で、利益分配的な政策を進めようとするから国の財政が傾いていく。
いま、私たちは岐路に立っている。
金融政策は、極めて緩慢ながらも異次元緩和からの「出口」に向かっており、日本銀行はやっとゼロ金利政策を解除した。
コロナ禍を契機とした多くの給付金や無利子無担保の貸付、エネルギー価格上昇を緩和するための補助金もやっと「出口」に たどり着きそうだ。
こうした中、これまでぬるま湯に漬かってきたゾンビ的企業の倒産件数が増大しているが、警戒すべきことに早くも、政治から「救済せよ」という声が聞こえてくる。
ここで政治の作用によって経済の相対的自律性が浸食され、資本主義の原理原則が歪められると、そのツケは将来においてさらに大きくなって戻ってくるだろう。
資本主義よりマシなシステムを私たちはかつて持ったことがない。
そうであるならば、資本主義の弊害を抑える努力をしつつも、その「アメとムチ」 の力を発揮させるべきときではないか。
それこそが、日本経済を発展させる力になるはずだ。
政治は経済の相対的自律性を尊重し、資本主義の「アメとムチ」による巨大な力を十分に発揮させるべきだ。
(月刊『時評』2024年6月号掲載)