2024/09/26
新年度に入る4月、多くの組織で新社会人を迎える。
新たに社会人となる若者が期待と不安を感じていることは毎年のことであろうが、昨今では、迎える上司や先輩の方が「パワハラと言われたらどうしよう」という「パワハラ懸念」で身構えている。
ある中央官庁で、いわゆるキャリア採用された新人の歓迎会を配属先の課長が開こうとしたら、幹事役に指名した2年目となるキャリア職員からは「それは私の業務ですか。人事当局に確認してもいいですか」と言われ、新人本人からは「業務命令であれば参加します」と胸を張って言われたそうだ。
歓迎会でこれだから、かつて中央官庁で当たり前のように行われていた週末一泊二日の課内旅行などとても提案できる感じではないという。
終業後のいわゆる「飲みニケーション」も昨今ではなかなか簡単ではないようで、上司が誘えば「業務でもないのに職場の人と飲んでも何も楽しくない」と反発され、それでも飲みニケーションも大切だからと誘えばパワハラだと言われそうだと聞く。
他方で、それでは行きたいという気心の知れた職員だけで行こうとすると、「自分には声をかけなかった」「お気に入りの部下だけをえこひいきしている」「自分のいないところで重要な話をして、参加者だけが理解していることができている」とこれもまたパワハラだと主張されかねない。
こうした「パワハラ懸念」は、けっして一部の特異な現象ではないらしい。
むしろ、日本の職場ではかなり広まっており、実際の職場における業務遂行上の指導においても「パワハラ懸念」は上司・先輩の念頭から離れないようだ。
数年前の民間調査だが、「部下への指導やコミュニケーションをとる際、『ハラスメントになるのではないか』という不安から、発言を躊躇した経験がある」とする回答が8割を超え、さらに「部下からハラスメントを指摘されることを恐れ、『部下となるべく関わらないようにしよう』と思ったことがある」とする回答が4割を超えたという(ダイヤモンド・コンサルティングオフィス)。
日本政府も経団連等の民間団体も、これまで「天然資源の乏しいわが国にとって、最も重要な資源は人材だ」という趣旨のことを何度も主張してきた。
しかし、現実には、政策現場でも、ビジネス現場でも、的確な人材教育・育成のための取り組みが「パワハラ懸念」によって阻害されているのではないか。
もちろん、いわば真正のパワハラが許されるべきでないことは当然だ。
国家公務員について言えば、人事院規則10-16において、「パワー・ハラスメント」とは「職務に関する優越的な関係を背景として行われる、業務上必要かつ相当な範囲を超える言動であって、職員に精神的若しくは身体的な苦痛を与え、職員の人格若しくは尊厳を害し、又は職員の勤務環境を害することとなるようなものをいう」とされている。
さらに、その運用に関する人事院通達では、具体的にパワハラに該当する行為として、例えば、書類で頭を叩く、部下を殴ったり蹴ったりする、人格を否定するような罵詈雑言を浴びせる、他の職員の前で土下座をさせる、相手を罵倒・侮辱するような内容の電子メール等を複数の職員宛てに送信する、改善点を具体的に指示することなく何日間にもわたって繰り返し文書の書き直しを命じる、自分の意に沿った発言をするまで怒鳴り続ける、などなど、まさに典型的なパワハラ行為が列挙されている。
実際にこのような事例があるのかどうかは寡聞にして知らないが、こうしたパワハラ行為が許されないことは当然だ。
また、パワハラの要素については、何に苦痛を覚えるかという点について、昭和と令和は違うといった時代環境の差や個人差があるという点にも配慮が必要であることも間違いない。
しかし、その上で、あえて言えば、パワハラ騒動に巻き込まれるのが面倒だから、あるいは怖いから、部下とは関わりたくない、となるとさすがに不安になる。
実際、現在の日本の状況を見れば「パワハラ懸念」故に、新人を含む部下への教育・指導がおざなりになり、わが国全体として人材レベルが低下していくことに懸念を感じざるを得ない面はないだろうか。
また、それは、パワハラ申告という手段を得て自分を守っているように見えて、実は、多くの若手が自らの能力開発に制約をかけてしまうという不幸な結果をもたらしてはいないか。
エッセイストの阿川佐和子氏が、人権主張の強い昨今でも、成長のためには無謀に何かをさせられることもときには必要ではないかという趣旨のことをどこかで述べていたが、これを大人の見識というのではないだろうか。
近時、「職場がホワイトすぎる」という批判的な声が若者から聞かれるのも由なしとしないだろう。
この春、新たに社会人となる若者が自らの成長を強く志向し、それに多くの職場が「パワハラ懸念」を乗り越えて応えることを期待したい。
(月刊『時評』2024年4月号掲載)