2024/10/07
厚生労働省が7月17日に公表した「2019年国民生活基礎調査」によると、日本全体での相対的貧困率(中間的な年間所得の半分=127万円未満で生活する家庭の比率)は、15・4パーセントと国際的に見ても高い状況にある。
新型コロナウイルス感染症拡大で、改めて日本の貧困問題が浮き彫りになっているが、貧困率が高い要因の一つは、一般的に格差が大きくなる高齢者世帯が増加していることだ。
しかし、ここで注目すべきは高齢者の問題ではなく「子どもの貧困率」である。
相対的貧困の中で暮らす17歳以下の割合は、同調査によると2018年時点で13・5パーセントとなっている。
五年前の13・9パーセントから大きな改善は見られず、依然として子どもの7人に1人が貧困状態にある。
特に、母子家庭など大人1人で子どもを育てる世帯の貧困率は高く、48・1パーセントにも上る。
こうした「子どもの貧困」がマスコミなどでも注目されるのは、例えば高齢者であれば、それまでの人生に対する自己責任という側面も否定できないのに対して、子どもの場合には「本人には何の責任もないのに、かわいそう」という感情論もあるからだろう。
しかし、そうした感情論以上に重要なことは、「子どもは即ち未来だ」という厳然たる現実の命題だ。
ノーベル経済学賞(1998年)を受賞したアマルティア・センの「経済成長のためには教育等の改善が経済改革に先行しなければならない」との主張を俟つまでもなく、貧困により教育機会が十分に与えられない子どもが一人増えれば、その分だけ、日本の未来は暗くなる。
子どもの教育はすべて公費負担で
もちろん、政府も、かかる現実を前に手をこまねいているわけではない。
昨年11月には、貧困家庭の子どもへの支援方針をまとめた「子どもの貧困対策大綱」を閣議決定している。生まれ育った環境で子どもの現在と将来が左右されないよう、早期の対策や自治体の取り組みを充実させる方針だ。
しかし、子どもの貧困対策に関する主な施策として政府がとりまとめている具体的な内容を見ると、とりあえず関連しそうな細かな予算事項をかき集めているだけのように見え、骨太な「本気」は感じられない。
そして、実際問題として、親世代の格差が子ども世代へと受け継がれていく傾向は強まっている。
もちろん、親が歯を食いしばって子のためにがんばるべきだとか、厳しい環境から立派な人物になった例もあるとかいう話を持ち出して「自己責任」論をかざすことはたやすい。
だが、そうした「自己責任」を背負う一人一人が、他方で私たちの社会を構成するということを忘れてはならない。同じ社会の構成員がいかなる者たちであるかに無関心であっていいはずがない。
高い潜在能力を有する子どもたちが、環境に恵まれないが故にその潜在能力を生かせないようなことがあれば、個人の損失だけで済む話ではなく、社会全体の損失になる。さらに、能力は高いが環境に恵まれない子どもが社会を憎悪する大人(さらには「反社」やテロリスト)になれば、そのマイナスの影響ははかり知れない。
逆に、貧困の中で見過ごされてしまいそうな能力までしっかりと伸ばすことができれば、日本にビル・ゲイツのような者が出てくるかもしれない。いわゆるユニコーン企業も、日本で数多く生まれるだろう。
子どもへの投資は、未来への投資なのである。しかも、その投資効率は、他の何よりも長期的には効率的であることも、各種の分析・研究によって指摘されている。
日本の未来が危ぶまれる今こそ、おためごかしな「大綱」や「基本方針」でお茶を濁すのではなく、本気で子ども=未来への投資を大胆に行うべきだ。
具体的には「小学校から大学院に至るまでの教育費は、すべて公費負担とする」という、たった一つの政策を本気で行うかどうかというだけの話である。
換言すれば、受験制度をいじくり回すような「金は出さないが口は出す」ことは止めて、「口は出さないが金は出す」という政策を打ち出すべきだ。
これができれば、日本が直面する少子化傾向が反転する可能性もある。
OECDのデータ(2019年)によると、日本の小学校から大学までの教育機関に対する公費負担の割合は、GDP比2・9パーセントで、OECD平均の4・0パーセントに届かない。ちなみに、トップはノルウェーの6・3パーセントだ。
現実的な第一歩として、GDPの1から2パーセントを付加的に教育に投資して、せめてOECD平均程度以上にすべきだ。
その財源は、高齢者への給付に大きく傾いているわが国の支出の見直しなどで十分賄える。高齢者とて、将来世代のために多少のコストを合理的範囲で負担することにやぶさかではあるまい。
日本の未来は、今の子どもが作る。その未来に投資できなければ、日本は沈み込んでいく。今、必要なのは未来への投資を本気で行う覚悟だ。
(月刊『時評』2020年9月号掲載)