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【追悼】主幹が問う「この國のかたち2011」石原慎太郎 氏

堕落した社会の回復には、人間相互の連帯が不可欠だ

いしはら・しんたろう 昭和7年9月30日生まれ、兵庫県神戸市出身。27年一橋大学入学。在学中に小説『太陽の季節』により芥川賞受賞。43年参議院議員選挙初当選。以後、約半世紀にわたり作家と政治活動を両立させる。47年衆議院議員選挙初当選。51年環境庁長官、62年運輸大臣を経て、平成7年議員辞職。11年東京都知事選挙初当選。現在3期目。『弟』『「NO」と言える日本』『国家なる幻影』など著書多数
いしはら・しんたろう 昭和7年9月30日生まれ、兵庫県神戸市出身。27年一橋大学入学。在学中に小説『太陽の季節』により芥川賞受賞。43年参議院議員選挙初当選。以後、約半世紀にわたり作家と政治活動を両立させる。47年衆議院議員選挙初当選。51年環境庁長官、62年運輸大臣を経て、平成7年議員辞職。11年東京都知事選挙初当選。現在3期目。『弟』『「NO」と言える日本』『国家なる幻影』など著書多数

聞き手・米盛康正(本誌主幹)

日本は核の保有を議論せよ  今年一年の日本、というより将来のため現在の日本に私が求めること、それは独自の核を保有せよ、ということだ。昨年秋、私は遺言のつもりで『文芸春秋』誌に長文を寄せたが、改めて再度この誌上にて指摘したい、日本は核を装備すべきである、と。  昨年、佐藤栄作内閣による沖縄返還の前後、日本政府が核の保有を検討し、当時の西独の当事者の間で両国の協力による核兵器開発の可能性について協議されていたことが明らかになった。村田良平元外務事務次官がこの世を去る直前に明らかにしたことだが、そのこと自体、私は実に大切なことだと思う。佐藤栄作という人は、私が物書きだったころからの知己であり、参議院に初当選してからも随分かわいがってもらった。あの沖縄返還のとき、佐藤さんは他の国会議員を一切随行させない方針を採っていたが、その中で私と竹下登氏だけが例外だった。  米国ワシントンでの返還交渉の際には、私と竹下氏がオブザーバーとして同行したのだが、出発前、佐藤さんの密使として交渉にあたっていた国際政治学者の若泉敬氏から、「石原さん、米国に行くなら、佐藤総理の推薦をもらって、あちらの戦略基地をぜひ見てきてください」と助言され、私は核戦略機能の二つの拠点、NORAD(ノース・アメリカン・エアロスペース・ディフェンス・コマンド)とSAC(ストラティジック・エア・コマンド)を訪れることができた。すなわち、あの頃すでに米国の核抑止力は日本の防衛にとって全く当てにならないことが、佐藤栄作氏など日本政府のトップレベルには深く認識されていたのだ。これは、すごい話ではないだろうか。しかしその後の 非核三原則宣言に見るように、いまなお日本は核を〝作らず、持たず、持ち込ませず〟などという馬鹿げた方針を取っており、政治家は与野党問わず圧倒的大多数が、そうした話題を口にすることさえタブー視しているようだ。朝日新聞などマスコミからの批判が怖いのだろう。  先ほどの米国戦略基地視察には後日談がある。私は、哲学者のレイモン・アロンと親交があったのだが、あるとき若泉敬氏を連れて会いに行ったことがある。  そのとき、アロンはわれわれ二人に対し、「なぜ日本は核を持たないのだ、核こそは国力の象徴ではないか。日本にはドゴールのような政治家がいないのか」と明確に言い切った。この核心を突いた言葉に若泉敬氏は、興奮した時の彼の常で、その場で鼻血を流しながら「いやあ、僕は今日、たいへんな刺激を受けた」としばし感嘆し、その後生まれた二番目の男児に〝核〟と命名したほどだった。  しかし今思うと、歴史のifを感じずにはいられない。歴史を語るとき「たら」「れば」は禁句だと言われるが、それは百年以上も前の大昔なら確かに空しいだけだが、たかだか半世紀にも満たない佐藤内閣当時においては非常な実感をもって悔やまれる。あのとき西独と協力して核開発と保有まで実現していたら、昨秋の尖閣諸島沖での問題などは発生しなかったであろうし、米国による経済搾取もなかっただろう。もちろん、北朝鮮の拉致問題も然りだ。今ならば、持とうと思えば二年と待たずして持てる。まずは米国オバマ政権が行ったように、日本のコンピュータによる核実験のシミュレーションを始めるべきだ。オバマなどは核の廃絶について「Yes, we can」と言っただけでノーベル平和賞を授与されたが、その実態は「But, we dont」でしかないのは、もはやだれの目にも明らかだ。米国と同じことを日本もやったらいい、それだけで世界は剋目するだろう。経済制裁など受けたところで動じることなく放っておけばいい、日本に対して禁輸措置など本当にできると誰が思っているのだろう、できるはずもない。  ただ、具体的に核開発に着手するのであれば、韓国と合同で開発するのがより良策だと私は思う。答えは明白だ。日韓両国のように、北朝鮮、中国、ロシアなど自国に敵対的な周囲の国々がそれぞれ独自の核を保有しながら、それに対峙する自国が何の核抑止力も持たないということ自体、おかしいと言わざるを得ないからだ。米国の保障などは有事の際、何ら当てにならないことは当時も今も変わらない。国務長官のヒラリーが、尖閣諸島は安全保障条約の適用範囲内であると発言したその一方で、クローリー国務次官補は全く逆に、おだやかにやれと注文しているのだから。 〝平和の毒〟から浄化するために  もちろん尖閣問題に関して最も問題なのは現政府であるのは言うまでもない。映像を流出させた海上保安官などは愛国者と言っても良いだろう。愛国者を売国内閣が罰することができるのか、その資格があるのかと問いたい。仙谷官房長官にいたっては、いまだ中国の漁船が尖閣諸島付近に出没していることを、「(同海域に)いらっしゃる」だの、「中国政府におかれましては」などと、ひたすら卑屈な表現を使っている。とても対等な国同士の関係を表す言葉ではない。まるで、主人に仕えるサーバントそのものだ。もっと、日本は自己主張しなければならない。  そのためにもまずは、日本の近代史を正しく理解する必要がある。今から十数年前、第二次大戦時の海軍エースパイロットだった坂井三郎氏が、中央線のとある駅で学生二人の会話を耳にし、そのやりとりが、日本と米国が戦争したことを知らないという内容だったのに驚いた、と講演で語っていた。現在では、こうした無知がさらに進行しているのではないか。  私はそうした危機感のもと、来年度から、公立高校における日本近代史の授業を必須科目とした。現在の授業内容や年間の進行具合では、重要な日本の近代史がほとんど触れられない。それゆえに、日米間での戦争を知らなかったり、もしくは戦争そのものが悪しきものだという、ある種の歪んだセンチメントが植え付けられてしまっている。過去に日本人が戦った戦争は、勝っても負けても全て悪だなどという教育をされては若者世代が可哀相だ。そして、その責任はわれわれの世代にこそある。さらに言えば、年代別でもっとも問題なのは、今の40~60代前半までの世代だろう。この世代は学校教育の影響ではない、観念的な平和を至上とした世論のなかで育った時代であり、言わば〝平和の毒〟に冒された世代だと言える。  ここで深く考察しなければならないのは、なぜ日本人とは、かくもセンチメントが好きなのか、ということだ。平和が尊いのは誰にでも分かるが、その平和は努力や犠牲を払って獲得・確保できるのか。米国に養われる妾のように、言いなりになったままあてがい扶持にたよって普段は何もしないような国に、確たる平和が保障されるはずもない。〝思いやり予算〟という法外な費用を払って米国に居座ってもらっているのは馬鹿げているとしか言いようがない。先日、ある表現を耳にして成るほどと思ったのだが、一つの国がその国民のアイデンティティを子どもに教えるとき、フランスでは「自由」「平等」「博愛」を唱え、これが米国の場合は「自由」で、その上にアメリカン・ドリームが有り得る、では日本の場合はどうか、これはただ「我欲」でしかない、しかしその「我欲」の具体的内容は何か。それは、「温泉」と「グルメ」と「お笑い」である、と。  こうした思考停止状態の平和志向社会は、個人の我欲、すなわち金銭欲、物欲、性欲の類を肥大させ、行き過ぎた個人の権利保護と相まって社会の規範を崩壊させる遠因となっている。離婚後に新しい男が出来た若い母親が、男におもねって自分の子供を虐待したり、殺したりするのは、性欲の暴走にほかならない。しかもそうした事件が日常化しているのだ。  複合的視点に欠ける日本の政・官他方で日本人は、物事を複合的、重層的に捉え、考えることを苦手としている。その象徴が役人だ。私はとくに国の役人が好きではない。彼らは現場を知らないし、知ろうとしない。東京都の役人とはその点が決定的に違う。国の役人は特に発想力が乏しい。いまの民主政権は政治主導を唱えて役人と一線を画しているようだが、私が新閣僚として事務次官と初めて相まみえたとき、次官から「大臣は役人がお嫌いですか」と問われて、「いや、嫌いではない」「では、お好きですか」「別に、好きではない」「では、どのようなお気持ちですか」「ただ、軽蔑しているだけだ」と答えた。それに対し次官の側も、こう抗弁していた。「私たちにも、取り柄がございます」「それは何だ」「コンティニュイティ(継続性)とコンシティディシ(一貫性)です」と。  冗談ではない、これほど変化の激しい現在の中で、継続性や一貫性を維持することにどれほどの意味があるというのか。かえって、新しい取り組みを阻害するマイナス要因でしかない。  さらに言うなら、文部科学省が行った「ゆとり教育」によって、日本の若者の学力が時間的に急落した。文科省は正式に、ゆとり教育と学力低下との因果関係を認めていないが、公私を含めて心ある学校は、これでは駄目だとして校長の裁量により土曜日に追加授業を行うなど、独自の対応を図る例が多々ある。文科省の指針と逆行することとなるが、文科省自身に後ろめたさがあるのだろう、こうした独自の動きを正面切って糾弾することなく、見て見ぬふりをするケースが多い。政策に問題があると思ったら、即座に修正すればよい。たとえ朝令暮改になったとしても、それこそが責任をとることでもあるし、誤った政策を続けることの方が、よほど悪影響が大きい。だから私は役人に対して、常日頃こう言っている。「お前たちは何の小説も書けない、たとえ数枚のショート・ストーリーでも、だ。小説とは様々な伏線や思惑を盛り込みながら結論を導くもので、そうした輻輳した要素を取り入れ、整理してストー リーに仕立てることが役人には出来ない」と。芝居でも同様だ。一幕の芝居にもきちんとした起承転結があり、それを形成する発想力と構成力が求められる。  すなわち、複合的、重層的な配慮や目配りがとくに国に役人には著しく欠けている。それは、彼らが生育過程で受けてきた偏向教育の産物なのだ。  とはいえ、そのような役人でも、政治家は上手く使わねばならない。民主政権は役人を忌避する傾向にあるが、どんなに煩わしい存在でも、使いこなせば便利なものであり、使わなければ自分が不便になるだけだ。このあたり、現政権は、愚直な単純さがある。役人は、使いこなすべきなのだ。そして、それこそが政治家の力量なのだ。昨年秋に供用が始まった羽田空港の新滑走路は、私と亀井静香氏とが二人で強引に実現させたプランだが、国土交通省に投げてみると、向こうも将来的なハブ空港化というこちらの意図を汲んだようで、取り組みが実に円滑に進んだ。役人だって、視野は狭いが愚かではない。上手く使えばそれなりに役に立つ。それを使いこなせない政治家もまた、複合的、重層的な視点を持てていないということだ。思うに、今の政治家はむしろ自分の保身を第一としている。これも我欲の肥大と言うべきだろう。  むしろ、産業界にはまだ傑物が残っている。2006年にウェスティング・ハウスを買収した東芝の西田会長は、当時ほとんどのマスコミから理解されず非難されたが、いまでは原子力産業で確かな実績を残している。いまや原子力でフランスに拮抗できるのは世界で日本だけだろう。こうした先見性や大胆な行動力を有した財界人が居るのは現在の日本にあって心強い限りだ。紆余曲折や苦難を経験した経営者なればこそだが、逆に政治家や役人にはこの点が決定的に欠落している。西田会長と話をしたとき興味深かったのは、新製品のアイデアを提案した社員に、どこでその発想を得たのかと問うと、会社の会議の場ではアイデアは決して生まれない、むしろ通勤の車内や入浴中、とのこと。つまり人間は、己を解放した時に、個人の情念に支えられた感性が形となって発想される。  こうした豊かな感性もまた、役人に著しく不足している点だ。平素から私は職員に、なんでもいいから趣味を持て、と言っている。良い仕事をするには、良い感性を養うことが不可欠だからだ。藤原正彦名誉教授が言っていたが、優れた感性を持つ者は、数学の分野においても、周囲が驚くような成果を挙げる例があるという。情念が自由になり、感性が解放されたとき、人間は思いもよらない優れた発想を生むことができるのだ。たとえばスポーツや流行の分野で、フリスビーやスケートボード、ウィンドサーフィンなど新しいスポーツを次々と生み出すのはもっぱら米国で、欧州からは新たな競技などはほとんど生まれない。歴史の新しい国だからこその柔軟な感性と発想が、世界のスポーツや流行を先取りしているのだ。かくいう私もまた、現職の知事という身分でありつつ、まだこれから書き たいと思う小説の構想が七本くらいある。日頃、分野の異なることで頭を使い、感性を磨いているから別の構想も浮かぶのだと思う。 奉仕活動や兵役の義務化を望む  さて、この国はこれからどうなるのか。現在のように堕落した日本、および日本人は、一度とことん突き落とされた方がむしろ覚醒するかもしれない。なにしろ、外圧でしか動くことのできない国民性だ。  かつて、北朝鮮がノドン・ミサイルを開発中との報が流れたとき、平壌からの飛行距離が京都までしか届かないと聞いたので、一度、京都に落ちて金閣寺あたりが炎上したら日本人も危機意識をもつのではないかと思ったものだ。例えはともかく、一度、横っ面を殴られないと日本人は何が起きているのかさえ気がつかないのだ。  そして、危機意識に覚醒した時、求められるのが人間相互の連帯である。疎外された社会の回復には人間同士の連帯が絶対に不可欠だ。具体的には、とくに若者を対象に、一定期間の奉仕活動や兵役を義務付ける必要があると考える。大脳生理学的に見ても、堪え性の無い人間はその後の人生を誤る可能性が高い。ことに昨今、目を覆うばかりの無気力と弱劣化の著しい若者にこそ、国の重要な役割に従事させ、相互の尊重と連帯意識の大切さを涵養させるべきだ。そうしなければ、ますます今の日本は堕落の一途をたどり、社会は荒廃する。そのときに最も影響を受けるのは、われわれの世代ではない、他ならぬ現在の若者たちなのだ。  自分たちがつらい思いをしなくて済むよう、未来の日本のためにも、現在の日本を脅かす諸問題からの防衛と、あるべき教育に向けた価値観の回復、苦難を乗り越えた先にある我欲の克服と連帯意識の重要性を再認識すべき時だろう。  直近のところで付言するならば、冒頭で述べた核の保有はもちろん、そろそろいい加減に具体的な憲法改正に着手すべきだ。他国から押し付けられた間違いだらけの憲法を65年間、一言一句教条的に固守している国など滑稽としか言いようがない。  何はともあれ、あらゆる意味で、亡国から救いたい。それが今年一年の、私の最たる願いである。 (談) (月刊『時評』2011年1月号掲載) ※全文当時のものを再掲しています。